甲斐武田氏滅亡の史跡を訪ねて(その1)
こんばんは!
台風が近づいて来ますねぇ・・・。
明日は大雨かな。
出勤時に電車が止まらなければ良いのですが・・・。
さて、もうひと月くらい前になるのですが、7月15日に、甲斐武田氏滅亡の史跡巡りに行ってきました。
きっかけはこの本、
伊東潤氏の武田三部作?
読むうちに、一度、甲斐武田氏が滅びた天目山を訪れてみたくなりました。
で、女房には、「山梨まで遊びに行こう」と声を掛け、愛車で清水の自宅発。
天目山を目指しました。
(歴史物?興味が無いなと思われる方は、どうぞ以下はスルーして下さい。)
武田勝頼が最期を遂げた景徳院をナビに設定。
途中、女房から「山梨の何処へ行くの?」と聞かれましたが、説明したところで女房は歴史に興味が無いので、ただ、有名なお寺とだけ言っておきました。
中央自動車道勝沼インターを下りて国道20号を走り、「景徳院入口」交差点を左折して、
景徳院へと向かって走って行くと・・・
危うく行き過ぎる所だったのは、「四郎作」
道沿いの民家の横にひっそりと「史跡 四郎作古戦場」という碑が建っていました。
織田徳川連合軍が甲斐新府に迫る中、重臣である小山田信茂の居城岩殿城まで退却し、織田徳川勢を迎え討つことにした武田勝頼は、700足らずの軍勢で新府城を離れ岩殿城を目指しましたが、途中、次々と家来が逃走、ついには頼みの小山田信茂まで裏切り、とうとう行き場を失ってしまいました。
自分の運命を悟った勝頼は、武田家祖先の墓がある天目山栖雲寺を目指し、そこで最後の戦いを挑もうと栖雲寺へ向けて200にまで減った軍勢で歩き始めましたが、すでに行く手には、裏切り者の辻弥兵衛が徳川勢を率いて待ち構えていたことから引き返し、この「四郎作」まで戻って来た時、以前、自らの勘気に触れ蟄居を命じていた小宮山友晴が主君の窮地を知って、一人駆けつけたのです。
「譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めぬのは末代までの恥辱、御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と申し出た小宮山友晴に、自らの浅膚を詫び、蟄居を解いた勝頼は、「四郎作」の守備を小宮山友晴に任せ、自らは「四郎作」から100mくらい日川上流の「鳥居畑」に陣を張りました。
この碑の辺りに小宮山友晴は数十名の兵と共に陣を張り、迫る織田勢4千を引き受けて奮戦し、皆、壮烈な討ち死にを遂げた訳です。
当に武士の鑑、あぁ、漢ですねぇ・・・。
この「四郎作」から100m?位進むと、道端に石碑が・・・
「史跡 鳥井畑古戦場」とあります。
「四郎作」で小宮山友晴が織田勢を引き付けている間、ここで勝頼は嫡男の信勝に家督を譲る儀式を行います。
武田家当主となった信勝はこの地で奮戦、父の自刃の時間を稼ぐべく必死に防戦しますが、最後は織田勢が放った鉄砲に撃たれて動けなくなり、自刃して果てたと伝わります。
享年16歳。
信勝の最後を見届けた勝頼は、現在の景徳院がある地まで下がり、妻共々自刃して甲斐武田家は滅亡する訳ですが・・・続きは台風が去った後で。
では!
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かつて自分もこの地を訪れ景徳院までは行きましたが「四郎作」や鳥井畑古戦場碑は見落としてしまいました。
両地を見過ごさず足をとめた「FUJIKAZE」さん、注意力の差とは言え流石ですね。
小宮山友晴と小山田信茂、同じ武田家の士でありながら天と地の違いがありますね。
特に最後の最後に主家を裏切り挙句の果て、投降した信長に処刑された末路は哀れとしか表現できません。
投稿: country walker | 2018年8月 8日 (水) 10時34分
country walker さん、こんばんは!
そうですね、江戸時代に、武士の鑑ともてはやされ、後世まで忠臣として評価されている小宮山友晴、方や助かりたい一心で武田勝頼を裏切り、結果、織田信忠に罵倒されて斬首された小山田信茂・・・。
どちらも人生の手本ですねぇ・・・・。
私に子供がいたら、この辺の話はしっかりして教育したいところです。
投稿: FUJIKAZE | 2018年8月 9日 (木) 21時26分