甲斐武田氏滅亡の史跡を訪ねて(その2)
みなさん、こんばんは!
台風、そんなに強風や大雨をもたらさずに東京を通り過ぎて行きました。
私は昨夜、会社で泊まり。
一晩中、緊張してましたが、ちょっと拍子抜けでなにより。
この先、進路にあたる東北地方も無事だと良いのですが・・・。
では、前回の続きです。
「鳥居畑」から「景徳院」までは短時間で到着。
車で2分くらいだったかな。
参道入口の総門の前は広い駐車場になっていました。
この駐車場からは、日川の姫ヶ淵へ下りることが出来る様になっており、そこには北条婦人(勝頼の継室、正妻)と16人の侍女を描いたレリーフが建てられていました。
ここで北条婦人に従ってきた侍女16人が自刃したり身を投げたのだそうです。
しみじみ見てみると・・・何とも哀れですねぇ・・・。
さて、総門をくぐります。
この総門に向かって右側には、「武田勝頼公廟所」と記された石碑が建っていました。
紫陽花が咲く参道を山門へと向かいます。
これが山門。
このお寺で最も古い物だそうですが、一度火災で焼け、天保6年(1835年)に再建されたのだとか。
そうしてこれが本堂です。
先ずは参詣。
このお寺は、元々武田勝頼終焉の地に、徳川家康が勝頼供養のために建てたもの。
この辺りで、武田勝頼は自刃したと伝わっています。
次は墓参です。
3基並んだ塔の中央が武田勝頼、左が信勝、右が北条婦人だそうです。
もっとも、このお墓は武田勝頼没後200年の遠忌である安永4(1775)年に建立されたものだそうですから、地下に遺骨がある訳ではないようです。
このお墓を囲むように、それぞれの「生涯石」が置かれていました。
この石の上で武田勝頼が自刃したとのこと・・・。
享年37歳、実際は自刃ではなく、織田勢に討たれたという説が有力ですが・・・。
こちらが北条婦人のもの・・・。
その傍には、辞世が書かれた石碑もありました。
「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」
北条婦人、名前は何と言ったのか記録がないそうです(伊東潤氏の小説「武田家滅亡」では「桂」と呼ばれています。)が、小田原の(後)北条氏当主、北条氏康の娘として生まれました。
所謂、「甲相同盟」の証人として勝頼の元へ継室として嫁ぎ、享年19歳であったと伝わります。
上杉謙信公の養子となった上杉景虎は兄にあたり、「御舘の乱」の際、彼女は勝頼に兄景虎救援を懇願し、これを受けた勝頼は景虎救援に出陣します。
しかし、狡猾な直江兼続の計略にかかった勝頼は目の前に積まれた黄金に目が眩み、中立を決め込んだため、景虎は敗れて自刃。
結果、勝頼は北条氏すらも敵に回してしまい、織田、徳川、北条と三方から攻められて終にはここ天目山麓で滅亡してしまう・・・。
愚かですねぇ・・・。
最後は「没頭地蔵尊」です。
「景徳院」の南側斜面にありました。
ここは勝頼、信勝、北条夫人の遺骸を埋めた辺りに、近隣の人が首の無い地蔵を建てたことからそう呼ばれているそうです。
ここにも辞世の句を記した碑が建っていました。
「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端」 武田勝頼
「あだに見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢」 武田信勝
首の無いお地蔵さんに合掌してふと顔を上げると・・・傍にはヤマユリの花が咲き誇っていました・・・。
これで、「景徳院」は終了です。
甲斐の虎と呼ばれ、上杉謙信公と激闘を繰り広げた武田信玄の甲斐武田氏もその子勝頼の代であっけなく滅亡してしまう。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」・・・武田信玄の有名な言葉だそうですが、勝頼は家臣達に裏切られ、最後は「景徳院」近隣の百姓すらも織田徳川勢の案内をかってでたとのこと。
彼は偉大な父から何を継承し,何を学んだのだろうか・・・なんだかとても哀れでした。
とりあえず、私はこれで満足したので、つまらなそうな女房を促して出発。
次の目的地である「恵林寺」へと向かいました。
続きは、土曜日かな?
では!
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