九州墓参旅行
みなさん、こんにちは!
小倉へ帰ってきました。
実は私、女房が死んで以来、精神科の医師から毎月一度、カウンセリングを受けていますが、医師が言うには、結局のところ良薬は時間しかないとのこと。
それから、できるだけ楽しいことをしなさいと言われ、旅行を勧められました。
それで最近、毎月のように出かけている訳ですが、5月は何処へ行こうかと考えていると、昨年の女房の一周忌以来、お墓へは行っていないことに思い至り、急遽一泊で行く計画を立てた次第です。
急な手配でしたが、幸い飛行機もレンタカーもホテルも確保出来ました。
13日の早朝、朝一番の飛行機へ乗るために清水の自宅を6時発、静岡空港へと向かいました。
予定どおりに8時05分発の福岡空港行きへ乗り福岡へ。
天気予報では、当日の福岡県は晴れ、翌日も晴れとのこと。
雨男の私にしては珍しい好天ですが、墓参なのできっと女房が晴れにしてくれたのでしょう。
彼女は晴れ女でしたからね。
飛行機は予定どおり9時55分に福岡空港に着いて、レンタカーを受け取り、九州自動車道を一路小倉へと向かいました。
小倉に着いたら、先ず腹ごしらえです。
もちろん、食べたのはコレですよ。
満足したところで叔父の家へ。
叔父を誘い、女房の墓へ行きました。
お墓は叔父や従姉妹が手入れしてくれていて、とても綺麗な状態でした。
感謝です。
きっと女房も感謝していることでしょう。
墓参の後は、お寺へ寄り秋の三回忌法要の打ち合わせをして、ペット霊園にも寄って・・・忙しく走り回りましたよ。
3時過ぎに定宿のホテルへチェックインしてしばし休憩。
5時に高校時代の友人が迎えに来て、小倉の街で一杯です。
積もる話で、小倉の夜は更けてゆきました。
翌朝は、10時にホテルを出て再び墓参、その後、さて次はファントムだぜ・・・。
実は当初の予定は、航空自衛隊築城基地近くの「メタセの杜」という物産館の公園に、私の大好きなファントムが置かれているとのことで、それを見に行くことにしていました。
ファントムを十分堪能したら福岡空港へ戻る計画だったのです。
小倉から「メタセの杜」までは車で約1時間、11時に霊園を出発し、のんびりと「メタセの杜」へ向かったのですが・・・到着してみるとまさかの臨時休館です。
遠くにファントムが置かれているのが見えましたが、物産館入口には柵が置かれ、施設内に入ることは出来ません。
楽しみにしてきたのに、ガッカリです。
それならば、大分旅行の時に行く予定だった場所へ行こう。
その場所は大分市内にある「戸次川(へつぎがわ)古戦場跡」です。
ナビで確認すると、「メタセの杜」からは約一時間半の距離。
1時30分頃には、到着できそうです。
よし行くぞ!決断すれば早い私。
東九州自動車道を一路大分へと走りました。
「戸次川の戦い」とは、天正14年12月、天下人である豊臣秀吉の発した惣無事令に背く薩摩の島津氏を成敗するために、秀吉の命で四国から大分へ渡った長宗我部元親公等四国勢が、戸次川、現在の大野川の岸辺で島津軍と激突し、破れた戦いです。
この戦いで長宗我部元親公は、嫡男である長宗我部信親公を喪いました。
私は先日の高知旅行で雪蹊寺にある信親公の墓参を行いましたが、大分の古戦場にも公の墓があるとのことだったので、是非、墓参したいと思っていたのです。
途中渋滞も無く、ナビどおりに1時30分、付近に到着。
帰りの飛行機の時刻を考えると、2時にはここを出なければなりません。
滞在時間は、約30分間です。
古戦場の看板は国道10号沿いにすぐに見つかりましたが、墓所は周辺をぐるぐる回っても見つかりません。
刻々と時間ばかりが過ぎ、気ばかり焦ります。
その時、地元の人が通りかかりましたので、尋ねてみると親切に道を教えてくれました。
墓所には、15分遅れで到着。
そこは山崎台地と呼ばれる場所で、地元の人達の小さな公園になっていました。
入口には、この戦いで亡くなった方の慰霊碑が建っています。
一礼して、奥の墓所へ。
付近には地蔵や墓石が多く点在していて、その中央に信親公の墓がありました。
織田信長を烏帽子親とした信親公は、聡明で優しく、領民からも慕われたと伝わります。
身長は当時では珍しい184cmと大柄で、武芸にも秀でてた知勇兼備の武将だったそうです。
島津軍の計略に掛かり、総崩れとなって敗走する四国勢の中で、父元親公を逃すために河原に踏みとどまり、信長から拝領した銘刀左文字を振るい雲霞のごとく打ち寄せる島津の兵を十数名切り伏せましたが、ついに鈴木大膳という武者に打たれたと伝わります。
島津軍の大将である新納忠元による首実検の後、信親公の首と胴はこの墓所に埋められましたが、元親公の懇願により、新納忠元は信親公の遺骸を掘り出し、荼毘に付して元親公へ送ったとのこと。
ですから、この墓は最初に信親公の遺骸が埋けられた場所であり、遺骨は高知へ持ち帰られて、雪蹊寺の墓所に埋葬されたのでしょう。
(ひょっとしたら、遺骨の全ては多くて渡すことが出来ないので、大事な部分だけ渡して、残りは再びこの墓地に埋葬されたのかも知れません。)
何とも感慨深い話です。
傍には祈念碑もありました。
少し離れた場所には、鎧塚がありました。
信親公が着用していた鎧が埋まっているとのことです。
そうして、同じ敷地内には、四国勢の一方の大将で、この戦いで全滅した十河存保(そごうまさやす)とその一族を祀る石碑も建っていました。
見渡すと、どの墓石も石碑も朽ちてはいるものの、下草は刈られ、美しく保たれています。
考えてみれば、この地で戦ったのは鹿児島県人と四国の人たちであるのに、この令和の世となっても、この墓所は地元大分の人に大切に管理され、掃除も行き届いていることに感動しました。
墓参の後は、先に発見した「戸次川古戦場跡」へ。
墓所にあったこの合戦の説明板によれば、
川の北に見える橋が大南大橋ですから、大分に上陸した四国勢はこの橋の更に北側を渡河したことになります。
そうして、仙石秀久の軍勢を先頭に、十河存保、長宗我部元親公、信親公、大友義統の順で島津軍に向けて進撃を開始しました。
進撃する四国勢を見た島津軍の先鋒は、ろくに戦いもせず後ろを向いて逃げ出します。
それを見て喜んだ仙石秀久は追撃を命じ、川の南側に見える水管橋辺りまで来た時、山に潜んでいた島津軍が大挙して押し出してきたのです。
島津得意の「釣り野伏せ」という戦法にあっさり引っ掛かった訳で、四国勢は大混乱となって壊走し、信親公は討ち死にしてしまうことになるのです。
もう少し詳しく周辺を探索したい・・・そう思って時計を見ると、すでに2時20分になろうとしていました。
まだ信親公終焉の地を見ていないのに・・・残念!
これ以上留まると飛行機に乗り遅れます。
私は後ろ髪を引かれる思いで車に乗り、九州横断自動車道経由で福岡空港へ戻ってレンタカーを返却し、九州を後にしました。
実に慌ただしかった墓参旅行でしたよ。
大分は、そのうちリベンジする予定です。
見て歩くには、1時間くらいじゃあ絶対に足りませんね。
では!















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